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2023/03/06 06:13

生きてきた長い道のり、傍らにはいつも寫眞機があった。

小学校入学のころ、今はなき祖父から贈られた”Olympus Pen Wide”

ランドアセルに忍ばせ登校し、先生やクラスメイトの日常を撮影していた。

祖父が営む会社は「特殊精密金属塗装業」を生業としていた関係で、昭和の高度経済成長時代に合わせ一流メーカーから当時雨後の筍のように現れた四畳半メーカーのカメラまで

様々なカメラの塗装を請け負っていた。

父は、コパルの研究室に勤め「レンズシャッターの開発」に従事していた。

 

このような環境下であるから、身の回りにはいつも寫眞機があった。

 

小学校中学年になると、ランドセルに忍ばせる写真機は”Olympus Pen Wide”から、

祖父の会社で塗装を請け負っていた“Wago Flex”、正方形のフォーマット、しかも左右逆像に最初は悩まされた。それまでの”Olympus Pen Wide”はハーフサイズの利点から72枚撮影できたが、6×6の中判サイズは12枚。一枚々を「じっくり考えて撮影する」ことを覚えた。

 

長じて、中学校。

「男子校では都内唯一のプロテスタント教育」を謳う中高一貫校に入学。

本来であれば基礎体力の関係から高校生だけが入部できる「山岳部」へ諸葛孔明宜しく

先輩と顧問を訪問し中学校3年時に入部。

入部後やはり高校生と中学生の体力差に顎を出しつつも様々な山へ訪れた。

72cm幅のキスリング(昔ながらの帆布製リュック)には”Olympus Pen Wide”が忍ばせてある。しかし、広角レンズ搭載といえど撮影には限界を覚え始める。

「ちゃんとしたカメラが欲しい」その一念の思いが募るばかり。

そのころ”Pen Wide”で慣れ親しんでいた”Olympus”から「小型・軽量、一眼レフOM-1」が発売される。

当時のカメラ業界は“Nikon””Canon”の全盛期。

そこへ「日本のオスカー・バルナック」といわれる「米谷義久氏」の理念が込められた、

「宇宙からバクテリアまで」のコピーに恥じないあらゆる周辺機器を発売時からラインアップされた一眼レフ=ちゃんとしたカメラの登場である。

「山へ行く際、個人装備は1グラムでも軽いほうが良い!」

 

当時のOM-1TVコマーシャル。

学生の兄弟。

弟は2段ベッドの上段、兄は下段。

弟は朝早く「山行へ」

兄の机にあるOM-1をうらやましく見つめている。

寝たふりをしていた兄はぶっきらぼうに弟へ声をかける。

「持っていっていいぞ!」

弟は満面の笑みでOM-1をタオルに包みヤッケのポケットにしまい込む。

 

実にタイムリーなコマーシャルである。

 

「これしかない!」そう思いつつも当時の中学生にはおいそれと買える値段ではない。

少なからずためていた「お年玉」と「おばあちゃんのお財布=偶数月に支給される年金」をあてにしてどうにか入手。

 

OM-1は山行はもちろん、日常のあらゆるシーンを記録していった。

 

入手時は35mmのみだったレンズも、明るい標準、長玉、広角などシステムを構築した。

その時に付き合い始めた人生初の彼女と詣でた鎌倉にも携行した。

淡い記憶も込められた個体になった。

 

この時入手したOM-1はいまだに現役である。

クロームメッキのボディはメッキを剥離し、真鍮出しの後、祖父の会社で「黒塗りに」。

個体は最初期の製品であっため、オーバードライブ対応、MR-9電池室改造など。

Olympusというメーカーはユーザーファーストの理念に則り今では信じられないような価格で最新バージョンへの改造を引き受けていた。

 

その時期と同じくして祖母から、なき祖父の形見のドイツ製カメラ一式を譲り受ける。

標準50mm、広角35㎜、望遠135㎜。各種外付けファインダー・フィルマガジン等。

ドイツ製といっても”Leica”はなく「鎧戸シャッター」の”Contax”であった。

日本のカメラメーカーが目指したドイツ製カメラの複雑さ、堅牢さに素直に感動した記憶も昨日のことのように思い出される。

 

その後、原宿にあるプロショップでのスタジオアシスタント、現像アシスタントなど様々な経験を頂いた。

 

家族を持ち、愛娘たちの記録。

日常の記録。

いつも傍らには寫眞機が手中に収められていた。

振り返れば自身の人生は、寫眞機と共に歩んだと言っても過言ではない。